満月はそこにあるのか

私たちは物を見るときに、その対象と自分がまるで切り離された存在であるかのように思い込んでいる。

満月の夜は満月が夜空に浮かび、その満月を見つめる自分があるとでも思っている。とんでもない。

満月を存在させているのはあなたなのに。

 

科学の探求が進み、ミクロ世界においては量子力学というジャンルで、私たちが認識するまで、目の前の対象は波動状態で、その位置が特定されていないことが明らかにされている。

 

つまり、私たちが観測するまで、つまり見る瞬間までは月なら月で、その位置が特定されていないというものである。

満月なのか、三日月なのか、新月なのか、それは私たちが観測する瞬間まではわからない。波の状態。

その波動が、私たちが観測した瞬間に粒子化するというもの。

月は観測するまでは波の状態で、観測した瞬間に粒子化する、つまり満月となる。

逆に私たちが観測するまでは、満月は満月として存在しないというのである。

そしてその法則はミクロ世界だけでなく、マクロ世界においても通じることがNTTの研究で明らかにされている。

だめだ、もうわけがわからない。。

いや、待ってください。

 

そんなに小難しい訳ではなく、つまり私たちが認識するから、この世界は今のような色・模様・形で存在しているのだということが明らかにされているということ。

 

この世界は私たちと無関係に存在するのでなく、私たちが認識するから存在しているというのである。

 

一体なにを言っているんだ状態?

また書きます。

 

The Greatest Show -人類史上最高のショウタイムは今ここに-

出遅れた感は否めないが、友人の勧めもあって先日The Greatest Showmanを観てきた。

この映画は実際にアメリカで19世紀に活躍した人物の人生を描いたもの。

まぁ概要はWikipediaででも掴んでほしい。

 

単純に映画としては面白かった。僕はミュージカル映画はレ・ミゼラブル以来だったが、レミゼは歴史ストーリーがすごく好きだったので、正直今回のGreatest Showmanはストーリーとしては薄っぺらい感じがした。

アメリカらしい成功ストーリーではある。

ただ、主人公の哲学(子供の影響もあったが)は美しさを感じた。

 

様々なマイノリティを一同に会し、Showとして広げる。単純なビジネスとしての行動だったのか、マイノリティへの思い入れがなにかあったのか、実際のところがどうなのかはわからない。

(映画の中では主人公が貧しい時代に、なんらかの病か障害かを連想させる1人の女性が1つのりんごを差し出すシーンがあった)

 

普段は社会の闇に隠れ生活するマイノリティが日の目を浴びる。

ありったけの個性を活かして、人々にその姿を思い切り披露する。

これでもかと生き生きと生きている生(せい)の喜びを表現する。

人間の本分は生きている喜びの表現・アウトプットにあることを感じる。

人間は本来誰しもがその人ならでは個性を持ち合わせ社会生活を営む。

その意味では誰もがマイノリティである。どんな人も間違いなくマイノリティなのである。

しかしマジョリティに属し、マイノリティを批判しようとする人々がいる。というか、そうした人の心がある。これもまた人の本分である。

それはきっと人間が生き残るために選択してきた、生へのある種の智性でもあるのであろう。

しかし、そうだとするならば、それは動物文明的な人類歴史である。

人間存在のプライド・尊厳はそのレベルで満たされることはない。

人間はより強力なチームプレーを求め、その未来を描き、その道に邁進しようとする。それが時代の要請である。

だから、南北朝鮮の統一に向けた動きにも、喜びと可能性・期待感を抱くのである。

 

人類史上最高のShow.でもあるかのごとく映画は進んでいく。

Showビジネスの世界では確かにそうなのかもしれない。

ただ、そこに私は違和感を感じざるを得ない。

我々1人1人は他の一切何にも変えられない唯一無二の存在である。

1人1人が間違いなくグレイトで、最高で、誰にも劣ることのない、1人1人が史上最高の存在である。

その1人1人は間違いなく、その人オリジナルの人生を思い描きながら日々の歩みを進め、ストーリーを紡いでいく。幾多の困難を超えながら。

最高のShowは映画の中にあるわけではない。

本当はいつだって今ここの、この瞬間瞬間が最高のShow timeである。

真実の世界を認識できればそのことは誰も否定ができない。

 

正確な認識が広がった先にある未来に向け、人類歴史の最高のShowは進んでいる。

 

人間とはこれなのだ。動物との違いはこれなのだ。

AIとの違いはこれなのだ。人間の尊厳とはこれなのだ。

そのDefineができる未来はもうそんなに遠いところではない。

人間存在のプライド、人間の尊厳。

それを誰しもが認識でき、誰しもが自分自身の本来の価値に気づき、この世界に生きる喜びに気づく未来が間違いなくくる。

いや、つくらなければならない。

これが私だ、これが人間だ。どうだ!!!

その誇り・プライドをみなで噛み締めたい。

 

I wanna shout

”This is ME! ”

”This is the HUMAN!”

 

美しい人類歴史をともにつくりたい。

世の中バカばっかである

批難覚悟のタイトルをぶっこんでしまう。

いいんだ別に批難されようと。

重要なメッセージは残すべきだと思うから。

誰かが言わないといけないし、他にも感じてる人がいるんだろうから。

 

Amazonがロードオブザリングの実写版制作を行うらしい。

https://news.aol.jp/2018/04/10/lord-of-the-rings-series-details-5-seasons-spinoff-1-billion/

その制作費なんと10億ドル。日本円にして1000億円以上。

 

私が感じた疑問をそのまま載せようと思う。

「それ必要?」

 

1000億かけて5000億儲かるのなら、投資家としてはやるべきだろう。

収益以外のメリットも考慮して決断を下したはずである。

 

しかし私の頭は疑問がひた走る。

「それやってなんになる?」

「それやって世界が平和になるのか?」

「それやってどれだけ世界が変わるんだ?」

 

 

Amazonといえば間違いなく世界屈指の企業。

エリートが集い、私には想像もつかないような戦略をもってして、未来を見据え企業活動に取り組んでいることでしょう。

ここまで大きくなると、その一挙手一投足を世界が注目しています。

「Amazonは次はなにをやるんだ?なにをやってくれるんだ?」

 

Amazon primeやmusic、Amazon echo等、様々なサービスで現代人の生活・業界構造を強烈に変革しているAmazon.

世界を、世界の人々の生活を、生き方を、人生を牽引しているといってももはや言い過ぎではない。

それだけ強烈な影響力を持つ集団である。

 

その彼らがやるのがロードオブザリングの実写化?

それで人々の生活がどれだけ豊かになるのか。

それで人々がどれだけ幸せになるのか。

それでどれだけ素晴らしい社会システムを構築できるのか。

それでどれだけ世界が平和に向かうのか。

 

お金は力である。

人を騙して思い通りに動かすにも、困窮して困っている人をなんらか救うにも、

いかようにも使うことができる。

 

お金持ちのお金は税金としてしっかり吸い上げろ、とかそういうことが言いたいのではなく、お金はより希望溢れる未来のためにこそ使いたいし、活かしたいと思っているにすぎません私。

 

真の意味でより素晴らしい人類社会・人類歴史に寄与貢献できないのなら、それはバカだと。その意味でタイトルをつけました。

 

本当に素晴らしい人たち、企業、人間社会集団であるならば、ぜひともより多くの人類の模範となる生き方、あり方、企業活動をもってその規範を示してほしい。

生命の息吹

小鳥のさえずり。

差し込む太陽の光。

爽やかな春の香り。

 

今日も1日が始まる。

止まることなく繰り返す細胞分裂。

入っては出て入っては出て、呼吸を通じて絶えず入れ替わりながら体内を巡りいく。

細胞も酸素も水も血液もエネルギーも。

体内成分の変容がありながらも、継続して一貫した意識体を貫く人間。

摩訶不思議な自然の摂理と共に生きる人間。

 

宇宙森羅万象の摂理の中で私たちは今日も生活を営んでいく。

ライオンもシマウマも、サルも鳥も犬も蟻も、植物も動物も、同じひとつの地球の下で。

 

生命ピラミッドのトップに君臨する人間たちはこれからどんな秩序を構築しようとするのか。

 

太陽の光は今日も変わらず私たちを照らしている。

やまない雨はない。降らない雨はもっとない。

明けない夜はない。

先日、よく話を伺う経営者の方から話を伺った。

「雨が降る」というのはおかしい、ということだ。

曰く、

「降るからこそ雨」であり、

「降らない雨はない」と。

そう言われるとそうである。風も同じである。

「風が吹く」というのは変な話で、吹くから風なのである。

吹かない風はないのである。

これは単純に「それはそうだね」というレベルの理解で止めるのは勿体無い話で、実に深掘りのおもしろみのある材料なんだと思う。

 

「ペン」だったら書く、投げる、捨てる、拾う、あげる、などなど主語に対して複数の述語の選択肢がある。

でも「風」は「吹く」だし、「雨」は「降る」である。

風が冷たいとか、雨が強いとか、言うことはできるんだけど、自動詞は吹くと降る以外には普通使わない。

要は主語が述語を決定するのである。決定論なのだ。

ペンという単語には選択肢がある。

風や雨には選択肢がない。

ここから「人間には選択肢があるのか?」という哲学的な問いにさえ達する。

人間の人生はすべて決定されている、とする決定論。

いやその人間の意志によって自由に変えられのだ、とする自由意志。

決定論と自由意志。

 

我々が「より世界をおもしろくしたい、良くしていきたい」という思いは、そもそもそう思うこと自体決定されているものなのか。それとも私たちの自由意志によるものなのか。

 

前者であるとするなら、人間生命の尊厳がどこにあると言うのだろうか。