人生に希望を見出した話#1(人生捨てたもんじゃないな)

僕はフツーの両親の元、田舎の島で生まれ育ち、

それはまぁぬくぬくと幼少時代を過ごしました。

 

どこぞの誰ぞやがどこどこの娘さんと付き合ってるらしいとか、

そんな話題が母親間のニュースになるほど、いたって平和で

大したことの起きないほんとど田舎地方です。

 

幼少期から自然の中で生まれ育った僕は、まあなんといっても

夏が大好きなよくありがちな田舎の少年で、

毎年夏休みになれば友達と海に行って魚釣りや素潜りをして

獲物を仕留め、そのまま浜でバーベキューしたり、そのまま

花火したりするというのが鉄板の遊びでした。

 

まあそんな平凡な日常に突如亀裂が入ったのが僕の中では

中学2年の夏で。

いつものとおり、夏休み初日に近所の海に行ったところ、

なんだかやむにやまれぬ違和感を感じて。

 

それがなにかというとゴミだったんですね。

浜辺に流れ着いた漂着ごみ。

確かその日はしけ続きの明けの日だったのか、

異様なほどの漂着プラスチックごみがどうにも目に飛び込んできました。

 

見慣れた風景が

なんだか違った景色の様。

 

なんだかその日は海に入る気にならず、その漂着ごみを数時間か拾い集めていました。

そこで初めてわかったのが、それらのごみの大半は海外からのものでした。

漢字ばかりの中国から。見慣れぬハングル文字の韓国から。

当時どこの文字かもわからぬタイやマレーシア・ベトナム・フィリピンなどの

東南アジアからのもの。

僕の住んでいた長崎の平戸という島は日本列島の西のキワ。

後になって知りましたが、最も中国韓国に近く、東南アジアから

東シナ海〜日本海へと抜けていく対馬海流の影響を受け、

そうした国々のごみが多いのでした。

 

なんでこうなる?

なんで外国に島を汚されないといけないんだ?

 

中学生ながらに世の中に、そしてそうしたごみを運ぶ元の

諸外国に敵意を覚えた夏でした。

 

その日以降すっかり環境問題が関心ごととなり、それまで

大して学校の勉強なんてしてなかったくせに、やたらと図書室に

行ってはそれらしき本を読む様になりました。

 

その後実は高校・大学と進んでも関連本や動画などを通して

情報を集め続けていましたが、環境問題や温暖化については

「それはいけない!もっと地球を大事にしないと!」

というのと

「いやそもそも温暖化してない」とか、

「温暖化したほうが良い面も多々ある」とか、

なんかいろんな情報が出て来ます。

 

知っても知っても「どうしたらいいんだ?」

の答えがわからない。

 

最初は海を綺麗にして、綺麗な島を保ちたかっただけでしたが、

それは結局国際間の問題解決となり、

つまりそれは「世界平和」なしにありえないようなことが

段々とわかってきました。

 

自分は立派な夢を掲げている、という自負心がどこかにありました。

でもそうした希望はその後ことごとく崩れることになります。

それはまた次回に。。

変化しつづける自分#3

今回もさらに前回の続きという3部作。

変化しつづける自分#2

外部の圧力からの変化の刺激で変わり続ける自分の生き方、自分の人生。

「それってなんかむかつかないか?」

ということを前回述べた。

 

ちなみに私の場合は大いにむかつく。

誰かに決めつけられてたまるか、と思う。

自分の人生なんだ、やっぱり自分で好きな様に歩みたい。

自分の好きなことをしながら、誰かに邪魔されたり、指示されたりすることなく、自分らしい人生を謳歌していきたい。

 

誰しもそうだろう。

じゃあどうやったらそれが可能なんだろうか?

 

私はnTechも学びながら、絶対にこれが必要だと確信しているその答えがある。

それはなにか。

それは

「主体性」

である。

 

重要なことだ。

変化をつくる主体は誰か?

間違いなく自分である。自分しかいない。

 

だから自分の生き方をよりよくしてくれる人なんて誰もいない。

変えられるのは唯一自分だけなのである。

 

誰かがきっかけをくれたりすることはあるかもしれない。

それでも変化するかどうかは自分自身が決めるのである。

逆に自分が決めなければなんにもできないのである。

もしくは十分な満足感や充足感が得られず、中途半端さを感じるようになっているのだ。

これは人間構造の仕組みである。

 

だから自分らしい人生とか、

納得のいく人生とか、

幸せな人生とか、

決定づける絶対的な要因は

「自分」

である。

 

自分をどれだけ大事にできるかは、

人生をどれだけ大事にできるかである。

 

誰かのために生きる人生は素晴らしいし尊い。

しかし、自分のために生きる人生はその何倍も重要だ。

 

まずは自分が満たされなければならない。

まずは自分が幸せにならなければならない。

そうでなければ誰かのために生きることはできない。

それは誰かのために生きているようで、自分の人生が生きられていない。

 

誰かのための人生は、

その人生を満足に感じる自分がなければいけない。

 

その意味で、自分の満足があって、そのあとで他人にベクトルを向けるのである。

 

なによりもあなたは、あなた自身の人生を大切にしなければならない。

あなた自身の心を大事に生きるべきである。

あなた自身の心が幸せに満ちること。

それがなによりも重要である。

 

優先順位を間違えてはいけない。

変化しつづける自分#2

前回より続く。

変化しつづける自分#1

私たち1人1人も外圧によって変化していることを簡単に述べた前回。

外部的な圧力は間違いなく私たち1人1人に変化を要請し、

ある意味その要請に従う格好で私たち1人1人は変化を遂げる。

 

今の時代に袴にちょんまげ姿で歩いている人はいない。

そのような時代は終わったからだ。

 

私たちは今の時代が要請する格好をし、音楽を聞き、映像を見ている。

今の時代が要請する仕事をし、今の時代が要請する生き方をしている。

そこからほとんど逃れられない。

縄文時代がよかったと言って住所登録もせず、税金も払わず、どこかで火をおこしながら暮らすことは残念ながらお国が認めてくれない。

すべからく国民は税金を納めなければならない。

この時代の国家システムに従う他ないのだ。

 

でもそれってどうだろう?

なんか腹立たしい気持ちも出てこないだろうか?

 

自分の人生がなにか他者によって制限されているような感じがしないだろうか。

ひどく言えば見えない者によって支配されているような気さえしてこないだろうか。

 

変化しつづける自分#1

今年で32才となった。

あっという間だなあと思う。

学生時代は早く大人になりたいと思ってた。

大人になってみると案外早い。

22才で学校を出て、あっという間にこの歳まで来た感じがする。

 

社会人生活がちょうど10年。

このサイクルをあと3回繰り返せば62才。

まぁ未来は寿命も伸びるだろうからあと4~5サイクルくらいはいくかな?

まぁそう思えばまだまだ先のある人生なのかもしれない。

 

最近の技術の進化は本当にすさまじく早いもので、目を見張るものがある。

先日仲間とテクノロジー関連のイベントを主催した。

講師として招いたnTech(認識技術)の講師の方が素晴らしいプレゼンの中で語っていたのは、そこでは中国だった。

 

テクノロジーと聞くと、やはりシリコンバレーがまず頭に浮かび、GAFAをはじめとした世界的な富を占有する企業群がイメージに容易い。

 

しかし、かなり侮れない中国。

実は時価総額TOP10のうちすでに9〜10位にアリババ・テンセントという中国企業が名を連ねている。

この5年でそこTOP10は大きく変動する可能性が高い。

 

世の中の進化や変化というのは私たちと無関係ではない。

むしろ私たちにめちゃめちゃ関係しながら、私たちの生活を変えていく。

今やスマートフォンを持たねば友達家族との連絡や仕事の連絡もままならないだろう。

LINE使えない友人がいたらどれだけ不便なことか。

プラットフォームを押さえる企業群は、その利用なしに人々を存在させない。

 

世の中の変化は私たち1人1人にとって、外圧である。

黒船をきっかけにアメリカという外圧によって、日本は江戸時代を終焉させ、ライフスタイルを大きく転換させたように、私たちは外圧によって1人1人も変化を遂げて来ている。

 

 

自分はこんなもんだ は偽物

今日は久々にセッションを実施しました。

セッションをやると、必ず出てきますね。

「自分なんて◯◯だ」

99%の現代人は経験あるでしょう。自己否定。

 

なにも悪いものではないんだけど、まぁそのことはなかなか受け入れがたい。

それに、その論理とか意味はなかなか腑に落としきれない。

だからセッションも道具にしながらひとつひとーつ丁寧に自分の固定観念をほどいていく。

 

強烈な自己否定の裏には、強烈な自己肯定がある。

強烈なブレーキの裏に、強烈なアクセルがある。

ブレーキを踏むのが癖になってる人が多いから、アクセル踏んでるのに気づきにくい。ほんとはどっちも踏んでる。

 

「自分なんてどうせ〇〇だー!」

の裏に

「本当の自分はもっと〇〇な存在なんだー!」

がある。

 

人間の強烈な叫び。

深く横たわっているのがその人唯一の絶対尊厳。

 

その本来誰もがもつ絶対尊厳を、全ての人が認識し、その自分で生きれる社会の完成。早くその日を目撃したい。

 

そのために一歩ずつ。